「編集手帳」と「格好をつける」ことについて
1日坊主にならなくてよかった。
近い友人に先日のブログの記事を見せたところ、
「なんとなく、読売新聞の『編集手帳』みたいだね」
という感想を頂いた。
なるほど確かにそんな文体な気がする。これは、私が元よりそういった文章を書くというよりは、「ブログ」という自由なキャンバスを与えられたときに、格好をつけようとしてこういった文体になっているのだと思う。ただ思うに、格好をつけることは悪いことではない。「カッコイイ」とは「格好をつける」ことから始まるのである。そして私にとっての「カッコイイ」が、「読売新聞の『編集手帳』」だったのだろう。
それでは私は具体的に何を格好つけているのだろうか。
おそらく、なるべく崩した表現を使わないことであったり、普段の日常会話では使わないような語彙を使っていることが、私にとっての「編集手帳」であり、私にとっての格好をつけることなのだと思う。
なるほど、そう考えていくと、「格好をつける」とは「誰かの言動をカッコイイと感じて、それを模倣しようとすること」なのかもしれない。しかも、その模倣が様になっていないとき人はその人を「格好をつけている」と揶揄するのだろう。この場合、私が私に対して、「格好をつけている」という表現を使っているので、私が私に対して、
「おいきみ、ちょっと君の文章は『編集手帳』を真似しているようだけど、ちょっと様になっていないね。」
というような気持ちがあるということを意味している、という風に考えているのである。読者の方々はどう思うだろう。私の文章は格好つけているように感じるだろうか?
まあ、格好つけるのは悪いことではないだろう。人は「格好つけている」と通して、誰かの「カッコイイ」になれるのだ。最初から「カッコイイ」というのは却って稀であろう、私はそう信じている。そして、模倣は、人の成長を促すのである。