諏訪大社参拝と山梨旅行
バレンタインデーだが、野郎3人で日帰り旅行をしてきた。
今日は、小春日和といった感じの天気で、旅行に絶好の日であった。
正午頃に松本を出発し、1時半に諏訪大社(上社)に到着。
今年に入ってから寺社仏閣にはいってなかったので、初詣の意味も込めて参拝を行った。
山梨矢吹川フルーツ公園へと至る。時刻は15時半過ぎ。
特にフルーツについては触れず、景色を見るのみとなったが、大変素晴らしい景色だった。
その後、本旅行の目玉ともいうべき、「ほったらかし温泉」へと至る。
富士山を含む笛吹市を眼下に望む絶景を楽しみながら温泉に浸かることができた。残念ながら温泉の中は撮影禁止だったので写真はない。なので、公式のホームページから想像を膨らませてほしい。
ここで我々はさんざん話をし、優に2時間を超える時間を露天風呂の中で過ごした。表面的でなく、真剣にお互いの意見を交換できる友人がいて私は幸せである。
その後、山梨名物、ほうとう鍋を、「甲州ほうとう 小作」でいただいた。
大変美味であった。
というわけで、大変楽しい慰安旅行となった。
【読書感想文】江戸川乱歩「白昼夢」
白昼夢
この小説は、ある男(主人公)が体験した恐ろしい、文字通り白昼夢のような出来事について書かれたわずか4,000字余の短編である。
晩春(5月であろうか?)の生ぬるい空気が漂っている大通りを歩いていた主人公は、前方から何やら人々の笑い声が聞こえてくるのに気づく。近づいていってみると、人だかりの中で、男が青ざめた顔をして何かを夢中で喋っているようなのだ。その話を訊いていくうちに、その男の凶行が明らかになっていき、最後にあるものを目撃し…というのがこの小説の流れである。
話の筋書きとしてはよくある話のように思える。しかし、巧みな情景描写によって、主人公の身に起こった出来事が果たして本当のことだったのか、はたまた幻だったのかを分からなくさせている。
冒頭で、主人公が歩いている大通りの描写が詳しくなされるのだが、蒸し暑い日の午後の中、民家が軒を並べ、子どもたちが童歌やら縄跳びやらで遊んでいる描写がいやにリアルで、脳内で容易にその様子がありありと浮かぶ。
そういった描写に対象的なのは、演説している男を取り囲む民衆についての描写である。彼らはただ、男の凶行についての話を笑うばかりで、いやに現実性がなく、ゾッとしたものを感じさせる。
こういった描写の緩急が、より一層この小説の雰囲気を幻想的なもの足らしめているのだろう。
そして極め付きが、ネタバレになってしまうので詳しい言及は避けるが、ラストで主人公が目撃するものの描写である。
「ワッ」っと脅かすだけが恐怖ではないという、日本然としたホラーが楽しめる。暇がある方も、そうでない方も、ぜひ読んでほしい作品である。
この「白昼夢」に限らず、江戸川乱歩の作品は著作権が失効しており、青空文庫で無料で読める様になっているのでぜひ読んでほしい。
江戸川乱歩「人間椅子」を読んでみて分からなかった単語を列挙して調べる
表題の通りである。
江戸川乱歩作「人間椅子」を読んだとき、意味を知らなかった単語や、読めなかった単語を列挙し、その意味を調べてみる。
もともとは読書感想文チックなものを書きたかったのだが、今現在そんな気力もなく、かといって毎日更新を3日坊主にするわけにも行かず、このような考えに至った次第である。
以下、Webilioにて調べたもののコピペである。
なお、漢字の左上につく☓だとか▽だとかいう記号の意味は
☓:常用漢字でない漢字
▽:読み方が常用漢字の中に入っていない漢字
だそうである。
dictionary.sanseido-publ.co.jp
けい‐しゅう〔‐シウ〕【×閨秀】
むつ‐ごと【▽睦言】
かしまし・い【×囂しい/×姦しい/×喧しい】
のみ【×鑿】
し‐げき【刺激/刺×戟】
なめし‐がわ〔‐がは〕【×鞣革】
「オンモリ」は江戸川乱歩独自の表現っぽい。「コンモリ」の「コ」が「オ」になったイメージで大丈夫だと思う。
こん‐ぜん【×渾然/混然】
こわ・す〔こはす〕【壊す/▽毀す】
こしら・える〔こしらへる〕【×拵える】
1 ある材料を用いて、形の整ったものやある機能をもったものを作り上げる。また、結果として不本意なものを作ってしまう。「弁当を―・える」「藤棚を―・える」「家を―・える」「こぶを―・える」
2 手を加えて、美しく見せるようにする。化粧したり衣装を整えたりして飾る。「顔を―・える」「身なりを―・える」
3 工夫を巡らし、ないことをあるかのように見せかける。「話を―・える」「うわべを―・える」
4 手を尽くして、必要なものを整える。用意する。「頭金を―・える」
「―・へ聞こゆるをも、つらしとのみおぼされたれば」〈源・夕霧〉
7 計画する。
「かねて―・へたることなれば、走りまはりて火をかけたり」〈義経記・八〉
→作る[用法]
どう‐せい【動静】
そう‐そう【×匆×匆/×怱×怱】
とて‐も【×迚も】
「漾う」…「漂う(ただよう)」の旧字体?調べても出てこなかった。
そう‐ごう〔‐ガフ〕【総合/×綜合】
い‐ざり〔ゐ‐〕【×躄/膝=行】
よう‐らん〔エウ‐〕【揺×籃】
け‐りょう〔‐リヤウ〕【仮▽令】
未来へのフラッシュバック
フラッシュバック (flashback) とは、強いトラウマ体験(心的外傷)を受けた場合に、後になってその記憶が、突然かつ非常に鮮明に思い出されたり、同様に夢に見たりする現象。心的外傷後ストレス障害(PTSD)や急性ストレス障害の特徴的な症状のうちの1つである。
大なり小なりあれど、フラッシュバックをしたことがない人間はいないだろう。
「なんであんなことを言ってしまったんだろう」
とか
「鉄棒が得意だったけど よく慣れた技をなめてかかり 後ろ向きに頭から落ちた」結果、「得意が苦手になっちゃった」
とか。
そういったものが抑えきれず、脳みそを駆け巡る瞬間が、長い人生、人間だれしも経験することだと思う。
御多分に漏れず、かくいう私もそういったトラウマによるフラッシュバックはかなり多い。特に友達と長話をしたあと。鼻持ちならない態度を示した自分が鮮明に蘇る。それを打ち消すため、変な声を出してみたり、変な行動をしたりする。それがさらに別の後悔となり…ということが多々ある。
なぜこんな話をしたかというと、
フラッシュバックは過去ではなく未来に向けても起こる
ということを話したかったからである。
もちろん、
「それってあなたの感想ですよね」
と言われたらそこまでなのだが、なんとなく文章にしてみたかったのと、
「みんなにもそういう経験あるよね?」
という共感を得たかった、というのもある。
(あとは、『未来へのフラッシュバック』というタイトルが、いかにもなSF小説のタイトルっぽくて気に入ったから、という理由も低くない位置を占めている。)
僕が「未来へのフラッシュバック」を経験しがちなのは、自転車に乗っているとき。
なにかひょんなことが起こって、自転車が電柱に激突し、前歯が全部折れてしまう、といった描像が、頭に鮮明に「フラッシュ」するときがある。
あるいは、なにか鋭いものを見たとき。それが僕の眼球にささり、鮮血が迸るさまをついつい想像してしまう。
こんな経験、皆さんにはありますか?
これはフラッシュ"バック"というよりも、フラッシュ"フロント"といったほうがいいかもしれない。
これはたぶん、最悪の未来を想像することによって、それを避けようとするなにかしらの防衛機構のようなものが働いているのだとも考えられる。なんか本当にSF小説に出てくる未来予知みたいだ。
というわけで、誰か「フラッシュフロント」という題名で、短編のSF小説を書いてみてください。これだけだときっとつまらないだろうから、なにかしらのエッセンスを添えて。
3年後期、終了。~例の感染症の影響とチーム研究の難しさ~
あっという間だった。
新型コロナウイルスの影響もあり、弊学では一年間を通してオンライン授業を基本的に採用する運びとなった。一部実験の授業は大学に足を運んで実験を行ったが、座学は完全にオンライン授業となった。おかげで単位取得は楽だったし、自分のペースで学習を進められるという利点もあったが、クラスの仲間と顔を合わせる機会が減ってしまったのがかなりの痛手だったように思う。私の「友人ネットワーク」なるものは、アルバイトを除けばほぼクラスの仲間に依存しており、「自発的には会いに行ったり話しかけたりはしないものの、会えば楽しく会話ができる程度の友達」と会えないことは、一抹以上の寂しさがあった。
私は「先進なんたらプログラム」というものに参加しており、一年早く研究室に参加し、ある程度本格的な研究を1年間行わせてもらっていたが、これに関しても新型コロナウイルスのあおりを受けてしまうこととなった。4人チームで研究を行っていたのだが、普段の通学がない分、なかなか4人そろうことができず、特に前期はほぼ無為な時間を費やしてしまった。また、新型コロナウイルスとは一切関係ないのだが、チームで研究することの難しさも、身に染みて感じる一年となったように思える。ふつう、研究、こと自発的な研究というのは、「皆やる気に満ち溢れており、アイデアがあればすぐ意見交換を行い、研究をより良い方向につなげていける」という前提が成り立っているように思っていたのだが、自分含め、なかなかモチベーションの管理が難しかったことに加え、一人がさぼるとみんなのやる気が著しく低下する、といった「腐ったリンゴ理論」も働き、理想的なペースでの研究ができなかったという反省がかなり重くのしかかっているという状況である。また、連絡してもなかなか返信を返してくれないことも、個人的にフラストレーションが溜まってしまった要因になってしまった。
愚痴ばっかり言ってもしょうがないので、建設的に、こういった状況はどうすれば回避できたかを、
・理想論ではなく
・私ができたであろう範囲で
・具体的に
書こうと思う。
まず、
情報共有は①素早く迅速に、②オンラインで、③一元管理で行う
これが大事だろう。
①に関しては面倒になりがちだが、私が所属している研究室ではSlackを採用しているため、可能ではあったと思う。先述した、「なかなか返信を返してくれない」問題に関しては、当人に建設的な意見を述べ、協力してくれるよう対応するしかないだろう。また、いわゆる「未読無視」をする輩についても(研究よりも優先する用事があることに私は心底驚いているのだが)、高圧的な態度で接せずに、建設的な対応を心掛けるべきだったと思う。
②と③は関連するのだが、ノートなどに情報をまとめても、ノートが置いてある場所に行かなければ情報を共有できないし、人によっては「字が汚い」という理由で筆記を嫌がる人もいるし、なにより面倒くさいし、加筆修正ができないしで、デメリットが目立つ。Slackやgoogleスプレッドシートをもっと早い段階で活用できていれば、このような事態も多少はましにはなったと思う。
また、上記の内容に関連して、
『できなかった』『わからなかった』は必ず報告する。1日調べてわからないことは研究仲間、院生の先輩、先生に必ず質問し、それに関しても情報共有を行う
これも非常に大事だった。
人によっては、「わからなかった」「できなかった」を「自分の勉強不足・知識不足」のせいにして、「勉強します。調べてみます。」となることがある。これ自体は素晴らしい姿勢ではある。あるのだが、「勉強不足」というのは一朝一夕で解消されるような表面的な問題ではない。「勉強不足」を言い訳にして質問から逃げるのはただのエゴである、私はそう感じる。また、単に技術的な問題で研究が行き詰ってしまうこともあるので、これに関してもすぐ院生や先生に質問するべきである。
―ああいけない。「べきである。」は理想論だ。他人に「べきである。」の理想論を垂れ流すのはただのオナニーだ。美人のオナニーは見ていて気分がいいが、そうでない場合は吐き気を催す。そしてこの文脈でいう「美人」、つまり「べきである」と言って他人を動かせるようなカリスマはそうそういない。たいていの場合では、「自分は凡人である」という仮定は真である。
「これに関してもすぐ院生や先生に質問しよう。まずは自分がそういった態度を示すのが大事。」
―これでましになった。
================
話は少しそれるが、上の話題に関連して、
「授業や発表を聞いて質問が1つ以上浮かんでこないのは、その授業や発表のレベルが当人にとって低すぎるor高すぎる、もしくは真面目に聞いていないことを意味する」
というのは、ここ1, 2年感じていることである。
自分で言ってて自分で耳が痛いのだが、「質問する」は自分が思っている以上に重要なことだと思う。
================
さらに、上記の内容に関連して、
注意・叱責・陰口では人は動かない
これも重要なことだと思う。
これに関しては具体的な解決策が思いつかないので、カーネギーの「人を動かす」でも読んで勉強することにする。
さて、今までずっと「(チーム)研究はうまくいかなかった」という主張だった。
しかし、担当の先生方は
「コロナウイルスの影響下でここまで進むとは思わなかった」
「4年生でも難しい内容に取り組んでいるんだから自信を持ってよい」
「素晴らしい研究だと思います」
と言ってくださった。
研究で学んだことを生かせるよう、まずはこの春休み、鍛錬を怠らないようにしたい。
「編集手帳」と「格好をつける」ことについて
1日坊主にならなくてよかった。
近い友人に先日のブログの記事を見せたところ、
「なんとなく、読売新聞の『編集手帳』みたいだね」
という感想を頂いた。
なるほど確かにそんな文体な気がする。これは、私が元よりそういった文章を書くというよりは、「ブログ」という自由なキャンバスを与えられたときに、格好をつけようとしてこういった文体になっているのだと思う。ただ思うに、格好をつけることは悪いことではない。「カッコイイ」とは「格好をつける」ことから始まるのである。そして私にとっての「カッコイイ」が、「読売新聞の『編集手帳』」だったのだろう。
それでは私は具体的に何を格好つけているのだろうか。
おそらく、なるべく崩した表現を使わないことであったり、普段の日常会話では使わないような語彙を使っていることが、私にとっての「編集手帳」であり、私にとっての格好をつけることなのだと思う。
なるほど、そう考えていくと、「格好をつける」とは「誰かの言動をカッコイイと感じて、それを模倣しようとすること」なのかもしれない。しかも、その模倣が様になっていないとき人はその人を「格好をつけている」と揶揄するのだろう。この場合、私が私に対して、「格好をつけている」という表現を使っているので、私が私に対して、
「おいきみ、ちょっと君の文章は『編集手帳』を真似しているようだけど、ちょっと様になっていないね。」
というような気持ちがあるということを意味している、という風に考えているのである。読者の方々はどう思うだろう。私の文章は格好つけているように感じるだろうか?
まあ、格好つけるのは悪いことではないだろう。人は「格好つけている」と通して、誰かの「カッコイイ」になれるのだ。最初から「カッコイイ」というのは却って稀であろう、私はそう信じている。そして、模倣は、人の成長を促すのである。
できるだけ毎日ブログを書こう
タイトルのように思い至ったのは、ちょうど最近、良いパソコンと良いキーボードを買ったことによるモチベーション増加の発露と捉えて良いだろう。また、もしくは、最近読んだ小説の影響で(私はもともと影響されやすいたちである)、なにか自分でも文章を書きたくなったのも原因と言えるかもしれない。ともかく、文章を書くことはきっと善いことに違いないので、ブログを久方ぶりに更新しようと思った私にまずは賛辞を送りたい。よくやった。
「何かを書こう」と思うのは比較的簡単なのだが、その「何か」を考えるのがいささか面倒くさい。私個人の今日昨日あった出来事を淡々を書き、それについての感想を述べてもいいのだが、それではあまりに自慰的すぎる文章になりそうである。かといって、「○○は△△だ」といった、何か抽象的なことを偉そうに書いても、己の無知を周囲に知らしめる行為になってしまいそうで些か怖い。結局何も考えず、テキトーに書いていればいいのだ、そういうことにしよう。
ところで、「適当(てきとう)」は、「程よく、目的などにあっているさま」という意味もあれば、「杜撰でいい加減であるさま」といった真逆の意味もあるので実にややこしい。幼時の私は、後者の意味しか知らずにおり、前者の意味で「適当」という言葉が使われているのを見知ったのは中学になってからであった。
「選択肢の中から、最も適当なものを選びなさい。」
このような「適当」の使い方に面食らったのは、おそらく私だけではあるまい。この「適当」は、わかりやすさのために「適切」と言い換えていることもあるようだが、「適当」と「適切」もまた、微妙にニュアンスが異なっているように感じる。やはり、「適当」もまた「適当に」用いるべきなのである。また、後者の、おそらく「テキトー」とカタカナで表記したほうが伝わりやすいであろう「適当」は、高田純次だか誰かがこの使い方を広めた、といった話をどこかで聞いたような気がする。まあこれもどうでも良い話なので、「テキトーな」話でした、と予防線を張っておこう。
閑話休題。いや、このブログ自体が閑話ではあるのだが。
そろそろ書くことがなくなったし、初日からガーッと書いて明日の自分の飛び越えるべきハードルを高くするのも良くないと思うので、今日はこれぐらいにしておこう。
「文章を書くこと」、そして「できるだけ毎日続けること」。これらが私を成長させてくれると信じて、ブログの更新を続けていくつもりである。
それでは。
追記
以前書いていた記事の文章力があまりにも稚拙で、消したい衝動に駆られている。